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さっぱり系三代(後編)

2020.05.21

祖母の衝撃発言

「私は半日!」

これは祖母が他界して10年余り、そしてこれからも語り草、殿堂入り間違いなしである。

実はこれを書くにあたり、伯母にメールで確認をとった。

「ねえ、あさばあちゃん、おじいちゃんが亡くなってメソメソしていたのは3日間って言ったんだっけ? 」

伯母からのメール返信は、

「残念ながら“半日”です」

断っておくが、祖父と祖母は決して仲が悪かったわけではない。寡黙な祖父とちゃきちゃきしている祖母は、そこそこうまくいっていたのではないだろうか。っていうか、祖母は祖父が文句を言っても怒っていても、ケロッと無視して適当にこなしていただろうからあまり喧嘩にはならなかったのかも。そうだ、きっと。

働き者で料理好き、何でも目新しいものに挑戦したい祖母は、テレビの料理番組から新しい献立を仕入れては祖父に披露していた。

今は働く主婦のための時短料理がもてはやされて早ウン年、チンとかブンとかを駆使した合理的な作り方が主流で、私もその恩恵を被っている。しかし、当時の料理番組には、超一流ホテルの料理長も長―いコック帽をかぶって出演していて、専業主婦向けにブイヨンの取り方やベシャメルソースなど、おフレンチの基本みたいなものも披露していた。そういう時代だった。

さて、あさばあちゃんは手の込んだ料理のレシピをメモっては挑戦し、当時としてはかなりハイカラなメニューも祖父に出していた。糠漬けや煮物は言うまでもなく大得意であったが、とにかく挑戦好きなのだ。

「美味しいともまずいともなーんにも言わないの!」とあさばあちゃんが首をすくめて笑っている姿を今でもはっきり覚えている。祖父が洒落た創作料理を美味しいと感じていたかどうかは今もって謎であるが、つるつる頭に手をやって「かなわんよ」と苦笑いしていたかも。

祖父があの世に逝った後は、そういう主婦としての生活が一変するのだし、何より半世紀以上連れ添った人がいなくなったのだから、普通ならしばらくがっくりくるはずなのだが…

「私は半日!」は祖母の強がりだったのかなあ。いやぁ~、やっぱり違う。

毎日精一杯生きていたから祖父の事についてもやり残した事はなかったんだ。

「今まではおじいさんと一緒に生きてきました。これからは私の人生です」ということなんだ、多分。
彼女は常に今と未来を向いていた明治の女だったのだ。

さて、超前向き祖母の娘である我が母も、しっかりそのDNAを継いでいる。父があの世に行った時も、わんわん泣いたりめそめそしたりはなかった。父は闘病生活が長かったからある程度の覚悟もできていたし、私と母の聞いた最後の言葉が「病院に美味しい和食のレストランができた」(実際はそんなレストランは無く父の釧網)という食いしん坊の父らしい言葉だったので、悲壮感ゼロ、というのも良かった。

ある日、父の入会していたゴルフ倶楽部に、生前お世話になったお礼とロッカーの荷物整理をしに母と出掛けた。ロッカーの荷物を全部出し、「おかあさん、この紙袋に入れておいてくれる?私はマネージャーさんに挨拶してくるから」と私はその場を離れた。そして、戻ってくると…
車椅子に座っている母が背を丸めて、ロッカーから出てきたウィンドブレーカーをたたみながら何度も何度もその薄黄色のウィンドブレーカーを撫でていた。

ありゃりゃ?葬儀の時は気が張っていたけど今頃きちゃったんだなあ、と私もしんみり。近寄るのを躊躇して、しばらく時間を置いた後「大丈夫?」と声を掛けると…

母はこう言ってのけた。

「この上着、一体いつ買ったのかしらん?あたし、知らないのよ。こんな色、持っていた?内緒で買ったんだわ、まったくー、典子、見覚えあるー?」

ああああありゃぁ~!まさかのそそそそ、そっちぃ~?

あ~あ~あ~気を使って損した!

母は91歳の今になっても明日に向かって意欲満々。

ひそかに“あさばあちゃんコピー”と呼ばれている。